弘道館帝王学

戦国乱世の武将の心と知恵を学ぶ学問

 

弊社 弘道館®代表は、鍋島直茂から15代直系子孫にあたり、当代弘道館を継承。

弘道館で培われた教育は今も脈々と引き継がれており

中でも鍋島直茂か残した直茂公御壁書 は藩を治める心得が書いてあり鍋島帝王学として今に復元しお伝えしております。

弘道館の歴史

弘道館(こうどうかん)は、江戸時代中期に日本の佐賀藩が設立した藩校です。弘道館(学館)といい、水戸・但馬と並んで天下三弘道館の一つと称され、明治新政府で活躍した副島種臣、大木喬任、大隈重信、佐野常民、江藤新平、島義勇などは皆弘道館の出身者です。

1781年(天明元年)佐賀藩第8代藩主鍋島治茂が古賀精里(儒学者)に命じ、佐賀城に近い松原小路に藩校「弘道館」を設立。

設立にあたり、熊本藩の藩校「時習館」をモデルとしました。鍋島治茂は石井鶴山(儒学者)を熊本藩に派遣し、成功した改革と藩校の関係を学ばせた改革の秘訣は「改革の担い手となる人材の育成」です。鶴山自身も、鍋島治茂の許可を得て、幕臣の太田南畝(蜀山人)、広島藩の頼春水ら学者と交流を深め、親しい間柄になるとともに、安永年間には、近江・美濃・尾張・河・陸奥・出羽江戸・上総・下総・上野・下野・信濃・大坂・山陽諸国を、天明年間には、肥後・薩摩・江戸・北陸及び山陰諸国・筑前・長門・近江・京都・伊勢・尾張・大坂・山陽諸国を遊歴し、他藩の改革事例を収集し、諸国の実状の把握に努めた。古賀精里は弘道館の初代校長格、石井鶴山は教頭格となりました。

1806年(文化3年)、古賀精里の子である古賀穀堂は意見書「学政管見」を提出した。この意見書で「教育予算は削らず、逆に三倍に増やすべき」などと提言し教育の重要性を訴えました。これは江戸時代の教育論としては現在も評価が高いです。

1830年(天保元年)、第10代藩主鍋島直正は藩主になると同時に弘道館の充実を指示しました。 1840年(天保11年)、鍋島直正は北堀端に移転拡充し、蒙養舎を設立しました。蒙養舎では15歳以下の藩士の子弟を教育し、古賀穀堂が直正の教育係を務めました。穀堂が「学政管見」で訴えた政策はほぼそのまま実施されたと言えます。

  • 1691年(元禄4年) – 佐賀藩第2代藩主鍋島光茂が佐賀二の丸に「鬼丸聖堂」を設立
  • 1697年(元禄10年) – 佐賀藩第3代藩主鍋島綱茂が聖堂を観頤荘内に移転。当時佐賀藩の学問の中心であった.
  • 1781年(天明元年) – 佐賀藩第8代藩主鍋島治茂が松原小路に藩校「弘道館」を設立
  • 1806年(文化3年) – 古賀穀堂が意見書「学政管見」を提出
  • 1830年(天保元年) – 第10代藩主になった鍋島直正が弘道館の充実を指示・兄である須古藩当主・鍋島安房茂真が弘道館最後の館長となる。
  • 1834年(天保5年) - 鍋島直正の藩政改革により医学館医学寮創設(直正公の扁額が下し置かれており、この頃すでに「好生館」と呼ばれていた)
  • 1840年(天保11年) – 鍋島直正が北堀端に移転拡充し「蒙養舎」を設立
  • 1846年(弘化3年) – 聖堂を弘道館に移転*
  • 1851年(嘉永4年) – 弘道館内に医学寮蘭学寮設置
  • 1872年(明治5年) – 明治新政府の学制改革により弘道館が一旦廃止される